毎年恒例である同期生達との一泊旅行で、生野銀山を訪れました。
生野銀山は兵庫県朝来市にあり、807年に発見されたと云われ、以来昭和48年まで
採掘が続けられた銀山です。
わが国最大級であっただけでなく、石見銀山と共に当時世界有数の銀山として
知られていました。
世界遺産に指定された石見銀山との違いは、生野が長く昭和48年まで採鉱された為、
各種の掘削機械が導入された事によるものと思われます。
つまり石見は大正12年に休山(実質的閉山)した為、その殆どが手掘りで、
歴史的にとか古い物をとか、考えれば石見により評価が高くなるわけです。
しかし資源少国、特に鉱物資源に恵まれないわが国において、長く銀を始め銅・錫等を
産出し続けた事に対する評価は些かも減ずる物ではありません。
それはさておき、開山当初の露天掘り、鉱脈を辿ってU字型や蛇行する溝状の脈堀り、
そして抗口を開けて山に掘り込んで行く坑道掘り、ついには地下880Mまで掘り下げて行く
様子にはただ感嘆あるのみです。
他のデータとしては、坑道の総延長は350KM、採掘した鉱石の種類は、銀・銅・錫を始め
約70種にも及びます。
そして江戸時代でしょうか、狸掘りとかいう人一人がやっと這って行ける程度の
横穴を掘って鉱石を採掘していく人の力の凄さには本当に感心しました。
昔、見知らぬ欧米諸国が“黄金の国ジパング”として日本との交易を目指していたのは、
これら二銀山に加えて佐渡の金山から産出された金銀に魅せられていたからなのです。
つまり当時のわが国は、世界有数の資源立国であったのです。
絹織物だけであれだけの海外の貴重品が、東端の島国に運ばれてくる事は有り得ないのです。
これほどの富の原泉である銀山ですから、権力を求める者たちの争奪戦に巻き込まれ、
常に勝者の勝ち取る所となりました。
つまり近世以後は信長・秀吉・家康の手を経て、明治には皇室財産となりましたが、
その後三菱合資会社(現在の三菱マテリアル)に払い下げる歴史を辿ってきたわけです。
昔の精錬の模様を再現した展示などを見学した後、生野銀山を後にして今夜の宿泊地、
城崎温泉に向いました。
温泉の湯に浸ってからカニ料理に舌鼓をうち、さてカラオケかと思ったら、
別室に移っての討論会。
最初のうちの近況報告の間は静かでしたが、地震災害のことから、政治や世相、
そして今後の世界の変遷はと声は大きくなり、話題は止まる所を知らず。
ついには深夜に及んで全員轟沈。
明くる日は出石へ廻り、古い町並みの散策のあと、蕎麦を賞味しました。
姫路駅で解散、来年にも全員元気で再会する事を約束したしだいです。
営業部 景山 浩道